この物語はフィクションです。
午後四時前、悠真からメッセージが届いた。
今夜で終わりにする。先延ばしにしても同じだから。
千尋が二度目を読んだところで、吹き出しが消えた。
代わりに、短い一文が届く。
ごめん。宛先を間違えた。今夜、ちゃんと話す。
二人きりで食事をするのは、初めてではない。けれど、二人の関係にはまだ名前がなかった。
千尋はいつもより時間をかけて服を選び、悠真が好きだと言っていた小さな洋食店を自分から予約した。
待ち合わせの一時間前、千尋は店へ電話をかけた。
「二人の予約ですが、片方だけ先に帰っても大丈夫ですか」
変更ではなく、確認だけです、と付け足した。
二年前にも、「話したいことがある」と呼び出された夜があった。食後のコーヒーまで待って、当時の恋人から別れを告げられた。以来、終わる気配のある日は、相手より先に出口を見つけるようになった。
今夜は料理が来る前に聞く。自分たちの話なら、自分の分だけ払って帰る。
それだけ決めると、少し呼吸がしやすくなった。
悠真は約束の五分前に来た。濡れた傘を店の外でたたみ、店員に会釈をしてから、千尋の向かいに座る。
「待たせた?」
「ううん」
水が二つ運ばれた。悠真がメニューを開くより先に、千尋はスマートフォンを伏せてテーブルへ置いた。
「通知で見えた」
悠真の指が、メニューの端で止まった。
「『今夜で終わりにする』って。私たちのことだと思った」
悠真は、すぐに否定しなかった。
その数秒で、千尋は椅子の背に掛けた鞄の位置を確かめた。立てば右手に出口がある。
「違う」
ようやく悠真が言った。
「父の店の手伝いのこと。妹に送るつもりだった」
悠真の実家は、駅の反対側で小さなベーカリーを営んでいる。彼は平日、家具会社で店舗設計をしながら、日曜日だけ店に立っていた。父親は常連客へ、いずれ悠真が店を継ぐと話しているらしい。
「俺は、継ぐって言ってない。でも手伝いをやめなかったから、同じことになってた」
「今日、やめるって話すの?」
「閉店後に。来月までは手伝うつもりだけど、その先は終わりにする」
安堵は、遅れてきた。
私たちの話ではなかった。それだけで笑ってしまいそうになる自分を、千尋は止めた。
「どうして、消したあとすぐに『店の話』って送らなかったの」
悠真は水のグラスへ触れ、飲まずに戻した。
「家のことをどこまで話していいか、分からなくなった。間違いだとは送ったし、それで待ってもらえると思った」
「その間、私は私たちを終わらせる準備をしてた」
悠真の手が、グラスから離れた。
「……『店の話』くらいは送れた。送らなかった」
店員が注文を取りに来た。千尋はまだメニューを開いていなかった。
「少し待ってもらえますか」
店員が離れると、悠真が言った。
「今日は帰る、でもいいと思ってる」
それは、千尋が用意してきた出口だった。
違うと分かったのだから残ればいい。そう決めることもできた。けれど安堵だけを理由に席へ残れば、今夜も悠真が何を望むかに、自分の時間を預けたままになる。
千尋は、椅子の背から鞄を下ろした。膝の上には置かず、隣の空いた椅子へ移した。
「帰りたいわけじゃない」
口にしてから、自分の声が震えていないことに気づいた。
「私は、悠真さんともう一度会いたいと思ってる。今日のことが店の話だったからじゃなくて、その前から」
悠真は口を挟まずに聞いていた。
「でも、何も分からないまま待たせるのは、次はやめてほしい」
「うん。次は、会うまで黙っていない」
悠真はそこで言葉を切った。

「俺も会いたい。次は昼に行ける店を探してた」
「それ、先に言ってよ」
「ごめん」
千尋はそこで初めて笑った。
「今は、それより注文しよう」
さっきまで開けなかったメニューを、今度は二人で開いた。
食事のあと、千尋は悠真とベーカリーの前まで歩いた。雨は上がっていた。閉店後の店には、奥だけ明かりがついている。
悠真が入口を見てから、千尋を振り返った。
「ここからは、一人で行く」
「うん。そのほうがいいと思う」
千尋は店の中までついていかなかった。
「終わったら連絡してもいい?」
「明日でいいよ」
「じゃあ、明日」
「明日」

悠真が店の扉を開ける前に、千尋は駅の方へ歩き出した。
翌朝、出勤前にメッセージが届いた。
話した。すぐには納得してもらえなかった。来月までは手伝う。でも、その先は店に立たない。父とはまた話す。
それと、来週の土曜、昼に会えませんか。
土曜、空いてる。今度はパン屋じゃないところで。
すぐに、笑顔のスタンプが返ってきた。
削除された一文は戻らなかった。その下で、土曜日の待ち合わせだけが、消されずに残った。
相手の気持ちを推測だけで決めそうな時は、彼の気持ちがわからない時に見るべき行動と言葉で、事実と想像を分けて整理できます。関係を始める前に、家族や仕事を含む大事な価値観を話したい時は、付き合う前に確認したい価値観も続けて読めます。




