エンドロールの最後の文字が消えても、彼は席を立たなかった。

「もう少し待ちましょう」

暗い客席で、彼はいつもそう言った。

「すぐ立つと、足元が見えないから」

この物語はフィクションです。
読者から寄せられる悩みをもとにした架空の相談を、気持ちを整理するための物語として描いています。

20:08 明るくなる前の客席

相談者が彼と知り合ったのは、古い映画ばかりを上映する小さな映画館だった。

月に一度、六人ほどで映画を観る集まりがある。

彼は、上映が終わってもすぐには動かなかった。

スクリーンから光が消え、通路の足元灯が見えるようになるまで、静かに座っていた。

相談者も、いつからか隣で待つようになった。

「今日の最後、どう思いました?」

劇場を出ると、彼は毎回そう尋ねた。

相談者がうまく説明できずにいると、急かさずに待ってくれた。

途中で話がまとまらなくなっても、

「続きは、駅まで歩きながら聞かせてください」

と言った。

彼と話している時だけ、自分の中にある言葉が、いつもより少しきれいに並ぶ気がした。

その夜は、小さな雨が降っていた。

上映後の二人は、一つの傘に入って駅へ向かった。

彼の肩が、傘から少しはみ出している。

相談者は何度も口を開きかけた。

改札が見え始めたところで、ようやく足を止めた。

「次は」

彼が振り返る。

「映画がない日にも、会ってみたいです」

雨の粒が、傘の上で細かく弾けた。

彼はすぐには答えなかった。

相談者の言葉が聞こえなかったわけではない。

その沈黙だけで、少し分かってしまった。

「ごめんなさい」

彼は、傘の持ち手を握り直した。

「僕は、このままが好きでした」

このまま。

月に一度、暗い客席で隣に座ること。

上映後に感想を話すこと。

駅まで同じ道を歩き、改札で別れること。

その先には行かないこと。

雨の駅前で一つの傘に入り、映画がない日にも会いたいという気持ちへ静かな答えを返す成人の二人

相談者は、小さくうなずいた。

「そうですよね」

なぜ「そうですよね」と言ったのか、自分でも分からなかった。

分かっていたふりをしたかったのかもしれない。

彼を困らせたくなかったのかもしれない。

「来月の監督特集、楽しみですね」

相談者は続けた。

彼も、少し安心したように笑った。

「はい。前に観たいと言っていた作品もありますよ」

二人は、いつもの改札で別れた。

電車に乗ると、窓に相談者の顔が映った。

隣には誰もいないのに、肩だけが少し傘の内側へ寄っていた。

三日後 二枚目の切符

彼から上映予定の写真が届いた。

「監督特集、予約が始まったみたいです」

相談者は、机の引き出しを開けた。

中には前売り券が二枚入っていた。

告白する前に買ったものだった。

うまくいったら、その場で彼を誘おうと思っていた。

日曜日、午後三時。

中央より少し後ろ。

二人がいつも選ぶ場所に近い席だった。

相談者はメッセージを打った。

「二枚あります」

そこまで書いて、止まった。

彼の隣で、映画だけを観られるだろうか。

暗い客席で肩が触れても、その意味を探さずにいられるだろうか。

上映後の「面白かったですね」を、以前と同じ言葉として聞けるだろうか。

相談者は文章を消した。

けれど、切符は引き出しへ戻せなかった。

その夜、二枚を重ねたまま、恋ノート編集室へ持ってきた。

夜の編集室のテーブルで、二枚だけの無地の前売り券を離して置く成人女性

ミオは、切符の日付を確かめた。

ミオ

日曜日ですね

「はい」

「二枚目は、どなたの席ですか」

相談者は、少しだけ笑った。

「分かっているでしょう」

ミオ

昨日までは、分かっていたのかもしれません

ミオは、二枚を離してテーブルに置いた。

ミオ

今はどうですか

相談者は右側の一枚を見た。

印刷された座席番号の上に、彼の名前が見える気がした。

「まだ、あの人の席です」

「では、そこに座ったら、何を待ちますか」

相談者は答えなかった。

映画の始まりではない。

彼の気持ちが、いつか変わる瞬間だった。

サヤが、編集室の棚から薄い封筒を一つ取り出した。

サヤ

切符って、不思議だよね

サヤは言った。

サヤ

同じ座席へ行く紙なのに、誰と行くつもりで買ったかまで、印刷されているように見える時がある

相談者は二枚目を裏返した。

白い裏面には、何も書かれていなかった。

「今まで通りでいようって、私から言ってしまいました」

「うん」

「今さら違うことを言ったら、変ですよね」

サヤは少し考えた。

サヤ

今まで通りの道を歩いても、昨日までと同じ場所には着かないこともあるよ

相談者はスマートフォンを開いた。

彼から届いた上映予定の下に、短い返事を書いた。

「教えてくれてありがとうございます」
「今度の回は、ひとりで観てみます」
「感想は、しばらくノートの方に置いておこうと思います」

何度か読み返し、送った。

返事は、十分ほどして届いた。

「分かりました」
「いい映画だといいですね」

相談者は、それ以上何も送らなかった。

彼も送ってこなかった。

二枚目の切符だけが、テーブルの上に残った。

日曜日 隣に座った人

映画館の入口には、当日券完売の札が出ていた。

相談者が列に並んでいると、後ろから声が聞こえた。

「やっぱり、もうないんですね」

一人で来たらしい女性が、受付の札を見ていた。

相談者より少し年上に見えた。

鞄から、折り畳んだ上映案内がのぞいている。

相談者は、手の中の二枚を見た。

一枚目には、自分の席。

二枚目には、まだ彼の名前が残っている。

「あの」

女性が顔を上げた。

「一枚、余っています」

女性は驚いたあと、何度も礼を言った。

相談者は代金を受け取り、二枚目の切符を渡した。

完売した映画館の入口で、成人女性が余った一枚の切符を一人で来た別の成人女性へ渡す場面

紙一枚だった。

渡してしまえば、あまりに軽かった。

客席へ入ると、女性は相談者の隣へ座った。

照明が落ちる前に、小さな声で言った。

「ずっと観たかったんです」

「私もです」

それだけ話し、二人は前を向いた。

スクリーンに光がともった。

映画の途中、彼が好きそうな場面があった。

主人公が、帰ってこない人のために、毎朝カーテンを開ける場面だった。

相談者は反射的に思った。

彼なら、この場面をどう観るだろう。

スマートフォンへ手を伸ばしかけ、やめた。

代わりに、小さなノートを取り出した。

待っているから窓を開けたのか、
朝が来たから開けたのか、最後まで分からなかった。

書いて、ノートを閉じた。

誰にも送らない言葉は、行き場をなくすと思っていた。

けれど紙の上に置くと、それはそれで一つの場所になった。

17:12 足元灯

映画が終わった。

エンドロールの最後の文字が消え、スクリーンが暗くなった。

隣の女性はすぐには立たなかった。

相談者も座ったままでいた。

彼といた時と同じように。

目の奥には、さっきまで映っていた海辺の街が薄く残っていた。

もう画面には何もない。

それでも、まばたきをするたび、白い建物や水面の光が浮かんだ。

消そうとして強く目を閉じると、かえって色が濃くなった。

相談者は、何もしなかった。

ただ、暗さの中に座っていた。

しばらくすると、通路の端に並ぶ小さな灯りが見えてきた。

隣の女性が立ち上がった。

「ありがとうございました」

「こちらこそ」

二人はそこで別れた。

劇場の外へ出ると、雨は上がっていた。

歩道には、映画館の看板が逆さに映っている。

彼と駅まで歩いた時は、いつも大通りを使った。

相談者は少し立ち止まり、今日は細い商店街の方へ曲がった。

雨上がりの映画館を背に、白い猫が眠る細い商店街へ一人で曲がる成人女性

遠回りになる道だった。

閉まりかけた花屋。

夕食の匂いがする食堂。

軒先で眠る白い猫。

彼と歩いていた時には、知らなかったものがいくつもあった。

振り返ると、映画館の明かりはまだ見えていた。

相談者は、それが見えなくなるまで立ち止まることはしなかった。

恋ノートに残す一文

暗転のあとに残る光は、
無理に消さなくていい。

目が暗さに慣れるころ、
足元の灯りから先に見えてくる。


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