録音には、一秒にも満たない音しか入っていなかった。
こつん。
古い石の階段を、靴の底で軽く叩いたような音。
「四段目だけ、違うんです」
相談者は、恋ノート編集室のテーブルにスマートフォンを置いた。
「ほかの段は、もっと硬い音がします」
ミオはもう一度、再生ボタンを押した。
こつん。
ミオ
どうして、この音を録ったんですか
相談者は、窓の外へ目を向けた。
「その人がいない日に、確かめたくなったからです」
この物語はフィクションです。
読者から寄せられる悩みをもとにした架空の相談を、気持ちを整理するための物語として描いています。
水曜日、窓側から二番目
大学一年目の春。
相談者は、水曜日の三限に「音と場所の文化論」という授業を取っていた。
興味があったわけではない。
空いている時間割に入り、試験よりレポートの比重が大きかった。
選んだ理由は、それだけだった。
教室は、五十人ほど入る古い講義室だった。
窓の留め具が少し緩んでいて、風が吹くたび、かすかな金属音がした。
相談者はいつも、窓側から二番目の席に座った。
窓側には、同じ学年らしい男子学生がいた。
最初に話したのは、四月の終わりだった。
教授が出席確認用の紙を後ろから回してきた時、彼のシャープペンシルの芯が折れた。
「すみません。ペン、貸してもらえますか」
相談者は、筆箱から青いボールペンを出した。
彼は名前を書き、すぐに返した。
「ありがとうございます」
それだけだった。
翌週、相談者が席へ着くと、机の上に同じ青いボールペンが置かれていた。
「先週、インクを結構使ったので」
彼は新品の替え芯を一本、横に並べた。
「そこまで使っていません」
「気持ちの問題です」
相談者が笑うと、彼も少し笑った。

それから、授業が始まる前に短い話をするようになった。
課題が難しかったこと。
学食のカレーは、辛口より中辛の方がおいしいこと。
キャンパスの北門は、午後六時を過ぎると閉まること。
彼の名前は、出席用紙に書かれた文字で先に知った。
本人の口から聞いたのは、その二週間後だった。
音を三つ集める課題
五月のある日、教授が言った。
「今日は教室を出ます。二人一組で、大学の中にある音を三つ録ってきてください」
教室のあちこちで、椅子が動いた。
相談者が顔を上げると、窓側の彼と目が合った。
「一緒でいいですか」
「はい」
二人はスマートフォンを持って、キャンパスへ出た。
最初に録ったのは、図書館の返却口だった。
本が奥へ滑り落ちる時、最後に小さなベルのような音がする。
二つ目は、テニスコートの近く。
ラケットに当たる音より、フェンスへぶつかったボールが地面へ落ちる音を、彼は選んだ。
「そっちなんですね」
相談者が言うと、彼は録音画面を見ながら答えた。
「大きい音より、そのあとに残る音の方が気になります」
三つ目が、なかなか決まらなかった。
二人は講義棟の裏へ回り、古い石段を上った。
半分ほど進んだところで、彼が止まった。
「今の、聞きました?」
「何をですか」
彼は一段下りた。
もう一度、四段目を踏む。
こつん。
「ここだけ音が違います」
相談者も踏んだ。
確かに、ほかの段より少し軽い。
中に小さな空洞があるような音だった。
「ひびが入っているんじゃないですか」
「それだと、急に現実的ですね」
「では、何だと思いますか」
彼は少し考えた。
「下に、忘れられた部屋があるとか」
「大学の地下に?」
「昔の資料室みたいな」
「入口が階段の下?」
「開けるには、決まった順番で踏むんです」
彼は、一段目、四段目、七段目を順番に踏んだ。
何も起きなかった。
「違ったみたいです」
真面目な顔で言うので、相談者は笑った。
彼も笑った。
二人は四段目の音を録音し、教室へ戻った。
その日のレポートには、
同じように並んでいるものにも、注意して聞くと一つずつ違いがある。
と書いた。
少し気取りすぎた気がして、提出する前に消そうと思った。
けれど、彼の画面にも似たような一文が見えたので、そのまま残した。
その人がいない水曜日
次の水曜日。
相談者はいつもより七分早く教室へ着いた。
窓側の席は空いていた。
その隣に座り、ノートを開いた。
授業開始まであと五分。
彼は来なかった。
二分前になっても、窓側の椅子は空いていた。
教授が入ってきた。
窓の留め具が、風に揺れて音を立てた。
いつも聞いている音だった。
それなのに、その日は少し大きく聞こえた。
授業は普段通り進んだ。
相談者も普段通りノートを取った。
分からないところはなかった。
困ることもなかった。

三限が終わり、学生たちが教室を出ていく。
授業はちゃんとあったのに、どこか一部分だけ休講になったような午後だった。
相談者は講義棟の裏へ回った。
古い石段の前で足を止める。
一段目。
二段目。
三段目。
四段目。
こつん。
彼がいた日と同じ音だった。
相談者はスマートフォンを取り出し、録音した。
何のためかは、自分でも分からなかった。
誰かへ送るつもりもなかった。
それでも消さずに、音声ファイルへ日付をつけた。
まだ名前をつけない
ミオ
会いたかった、ということですか
恋ノート編集室で、ミオが尋ねた。
相談者は少し考えた。
「そこまでではない気がします」
翌週には、また会えるかもしれない。
連絡先を知らないわけでもない。
会えなければ何もできないほど、彼のことを知っているわけでもなかった。
好きな食べ物も知らない。
どこから大学へ通っているのかも知らない。
休日に何をしているのかも知らない。
「でも」
相談者は、スマートフォンを手に取った。
「いると思っていた人がいないと、席が一つ空いただけなのに、教室が広く見えました」
ミオは録音をもう一度流した。
こつん。
ミオ
この音を、その人に聞かせたいですか
相談者は答えなかった。
スマートフォンの画面には、授業の連絡用グループが表示されていた。
その中に、彼からの投稿があった。
先週休んでしまいました。
課題の変更点があれば、教えてもらえると助かります。
全員に向けられたメッセージだった。
すでに二人が、課題の内容を返信している。
相談者が付け加える必要はなかった。
それでも、彼との個別画面を開いた。
しばらく迷ってから、一秒の録音を添付した。

四段目、まだ同じ音でした。
課題は前回と同じ形式です。
送ってから、少しだけ恥ずかしくなった。
課題の説明だけでよかったのではないか。
四段目の報告など、必要なかった。
取り消そうとした時、既読がついた。
返事はすぐに届いた。
確かめに行ったんですか。
相談者は、
たまたま通ったので。
と書いた。
嘘ではなかった。
ただ、その階段は、駅とは反対側にあった。
彼から、もう一つ届いた。
来週、もう一度聞きに行きましょう。
靴が違っても同じ音か、試してみたいです。
相談者は返信欄を開いた。
「行きましょう」と書き、少し迷ってから送った。
恋と呼ぶには、まだ余白が多かった。
けれど来週の水曜日が、先ほどより少し近くなった。
次の水曜日
相談者が教室へ入ると、彼はすでに座っていた。
窓側から二番目の席に、彼の鞄が置かれている。
相談者に気づくと、彼は鞄を自分の足元へ下ろした。
「ここ、取ってしまっていました」
「大丈夫です」
「先週の分まで、窓を使ってください」
「窓は共用です」
二人は笑った。

三限が終わると、彼は立ち上がった。
「四段目、行きますか」
二人で講義棟の裏へ回った。
彼は白いスニーカー。
相談者は、先週とは違う革靴を履いていた。
彼が先に踏む。
こつん。
相談者も踏む。
こつん。
「靴は関係なさそうですね」
彼はしゃがみ込み、石段の側面を見た。
「下に配管があるのかもしれません」
「忘れられた部屋ではなく?」
「それは、もう少し調べないと分かりません」
彼は立ち上がり、時計を見た。
「四限、ありますか」
「今日はありません」
「僕もです」
少し間があった。
「学食、まだ開いていますよね」
「たぶん」
「地下室のこと、続きを考えませんか」
相談者は、四段目から足を下ろした。
「配管の話なら、もう終わったのでは」
「では、別の可能性を探します」
二人は階段を上った。
学食へ向かうには、正門へ続く近道がある。
けれど彼は、銀杏並木の方へ曲がった。
少し遠回りになる道だった。
相談者は何も言わず、その隣を歩いた。

四段目の理由は、まだ分からない。
彼がなぜ遠い道を選んだのかも、聞かなかった。
分からないものを、すぐに一つの答えへ変えないまま歩く午後も、悪くなかった。
恋ノートに残す一文
まだ名前のない気持ちは、
階段の四段目に少し似ている。ほかと違う理由は分からなくても、
次に通る時、
また確かめたくなる。
小さな共通時間から関係を進める方法は友達から恋人になるきっかけの作り方で、一つの行動だけで相手の気持ちを決めない見方は脈ありサインとは?で整理できます。告白より前に、次の予定や双方向の行動を見る方法は告白前に確認したい脈ありサインで、気持ちを伝える時期そのものに迷った時は告白するタイミングはいつ?で確認してください。





