彼が自分にだけ優しいのだと思っていた。

それが勘違いだったと気づいた時、彼女は、好きになったことまで間違いだったような気がした。

この物語はフィクションです。
読者から寄せられる悩みをもとにした架空の相談を、気持ちを整理するための物語として描いています。

17:42 鞄の中の一枚

相談者は、鞄から一枚のチラシを出した。

駅前の小さな美術館で開かれている写真展。

開催は、今週の日曜日までだった。

写真展「雨のあと」
最終入場 17:30

「今日、誘おうと思っていました」

恋ノート編集室のテーブルで、相談者はチラシの角を指でなぞった。

毎週金曜日、仕事帰りに参加している読書会がある。

そこで知り合った男性を、好きになった。

最初に話したのは、三か月前。

相談者が席を探していると、彼が窓際の椅子を引いてくれた。

「ここ、明るくて本が読みやすいですよ」

その次の週から、彼は毎回、同じ席を空けてくれていた。

休憩時間には、相談者が砂糖を入れないことを覚えていて、何も聞かず紅茶を渡してくれた。

帰り道も、彼の駅は一つ手前なのに、相談者が乗り換えるホームまで話しながら歩いてくれた。

写真展の話をした時には、

「それ、僕も気になっていました」

と言っていた。

だから、今日こそ誘おうと思った。

読書会は、今夜で一区切りになる。

彼は来月から仕事の時間が変わり、次の回には参加できないらしい。

ミオ

だったら、誘ってみてもいいんじゃない?

ミオが言うと、相談者は小さく首を振った。

「昨日、見てしまったんです」

読書会の連絡用グループに、新しい参加者から質問が届いた。

会場までの道が分からないという内容だった。

彼はすぐに地図を送り、最寄り駅から迷いやすい場所まで説明していた。

別の参加者が体調を崩した時には、読んだ本の内容をまとめて送っていた。

いつも席を用意していたのも、相談者にだけではなかった。

足の悪い参加者が来た日は、入口に近い席を空けていた。

紅茶の好みも、ほかの人の分まで覚えていた。

読書会で複数の参加者へ飲み物や席を用意する成人男性を、ラベンダーの服の成人女性が見つめる場面

「私だから優しくしてくれたんじゃなくて、あの人は誰にでも優しいんです」

相談者はチラシを半分に折った。

「それを脈ありだと思っていた自分が、恥ずかしくなりました」

ミオは少し考えてから尋ねた。

ミオ

彼がほかの人にも優しいと分かって、彼のことを嫌いになりましたか

「いいえ」

答えは、すぐに出た。

むしろ、彼らしいと思った。

自分が見ていない場所でも、困っている人を放っておかない。

そのことを知って、好きなところが一つ増えたくらいだった。

「じゃあ、嫌だったのは彼の優しさではないんですね」

相談者は黙って、折ったチラシを見た。

「私が特別だと思える理由が、なくなったことです」

レンが、ノートを相談者の前に置いた。

レン

彼が誰にでも優しいことと、あなたと二人で会いたいと思っているかは、別の話だと思います

相談者が顔を上げる。

「でも、二人で会いたいなら、向こうから誘いませんか」

レン

誘う人もいると思います

レンは答えた。

レン

誘えない人もいる。でも、それだけで彼の気持ちは決められない

「じゃあ、どうしたら分かりますか」

レン

少なくとも、席や紅茶だけでは分からないと思います

レンは、折られたチラシを指した。

レン

二人で会いたいなら、二人で会う提案をしてみる。その返事なら、席より少し具体的です

相談者は、ノートを開いた。

赤い付箋には、これまで想像していたことを書いた。

毎回隣に座るから、私を好きなのかもしれない。
紅茶の好みを覚えているから、特別なのかもしれない。
駅まで一緒に歩くから、帰りたくないのかもしれない。

その隣に、実際に分かっていることを書いた。

彼は、ほかの人にも親切にしている。
読書会の外で、二人で会ったことはない。
彼から誘われたことはない。
私からも誘ったことはない。

最後の一行を見て、相談者は折ったチラシを開いた。

夕方の編集室で、写真展のチラシをもう一度開き、自分から誘うことを決める成人女性

青い線の下には、一文だけ書いた。

好きだと伝える前に、まず二人で会いたいと伝える。

19:06 いつもの席

読書会の会場へ着くと、窓際の席が一つ空いていた。

テーブルの上には、相談者が前回忘れた栞が置かれている。

彼が手を上げた。

「預かってました」

「ありがとうございます」

彼はすぐに、新しく来た参加者の椅子を運びに行った。

その後、飲み物を取りに行き、全員の希望を一人ずつ聞いていた。

相談者の前には、砂糖の入っていない紅茶が置かれた。

「これで合ってますよね」

「はい」

やはり彼は優しかった。

相談者にだけではなかった。

その事実は、もう悲しいことだけではなかった。

読書会が始まった。

最後に紹介された本は、旅先で撮られた写真をめぐる短編集だった。

彼は写真のページを開きながら言った。

「写真って、写っているものより、撮った人が何を見ていたかが残る気がします」

相談者は、鞄の中のチラシを思い出した。

休憩時間に誘おうとした。

けれど、彼はほかの参加者と話していた。

片づけの時にも声をかけようとした。

けれど、全員で記念写真を撮ることになった。

気づけば、会場に残っているのは二人だけだった。

彼は椅子を重ね、相談者は机の上に残ったカップを集めた。

「来月から、来られないんですよね」

相談者が聞いた。

「しばらくは難しそうです」

「そうですか」

会話が途切れた。

このまま「またどこかで」と言って別れれば、何も失わない。

読書会の知り合いとして、きれいなまま終われる。

けれど、次に会える理由もなくなる。

相談者は鞄からチラシを取り出した。

「あの」

彼が振り返った。

「この写真展、日曜日で終わるんです」

「前に話していた展示ですよね」

覚えていた。

それだけで、また期待しそうになる。

相談者は、期待を読み取ろうとする代わりに、続きを口にした。

「よかったら、一緒に行きませんか」

彼はチラシを受け取った。

「いいですね」

胸の奥が明るくなりかけた時、彼が尋ねた。

「読書会のみんなも誘いますか?」

20:18 二人で、の意味

「そうですね」

いつもの自分なら、そう答えていた。

断られたことにはならない。

恥ずかしい思いもしなくて済む。

みんなで出かけた先で、また彼の隣に座れるかもしれない。

けれど、それでは今日までと同じだった。

彼の親切から、自分に都合のよい意味を探し続けるだけになる。

相談者は、持っていた紙コップを机に置いた。

「いえ」

声が思ったより小さくなった。

彼が相談者を見る。

「できれば、二人で行きたいです」

言ってしまった。

頬が熱くなった。

相手の表情を見ていられず、積み重ねた椅子の脚を見つめた。

断られるなら、早く断ってほしい。

そんなことを思った直後、彼が言った。

「二人で、いいんですか」

相談者は顔を上げた。

彼も少し困ったような、照れたような顔をしていた。

「はい」

「それなら、僕も二人で行きたいです」

彼はスマートフォンを取り出した。

「日曜日、何時がいいですか」

「午後なら、いつでも大丈夫です」

「じゃあ、二時はどうですか」

「大丈夫です」

彼はカレンダーへ予定を入れた。

画面に、

14:00 写真展

と表示される。

それから彼は、入力した文字を見たまま、少し迷っていた。

「もう一つ、確認してもいいですか」

「はい」

「僕は、デートのつもりで行ってもいいですか」

相談者は息を止めた。

恋が始まる時には、もっと特別な音がするのだと思っていた。

音楽が流れたり、風が吹いたり、誰かが背中を押したりするのだと。

実際に聞こえたのは、片づけ忘れた空調の音と、廊下を走る台車の音だけだった。

それでも、その一言は、これまで集めたどの脈ありサインよりもはっきりしていた。

「私も、そのつもりで誘いました」

彼は安心したように笑った。

「よかった」

片づけ後の読書会会場で、写真展のチラシとスマートフォンの予定を一緒に確認する成人の二人

相談者も笑った。

告白をしたわけではない。

付き合うことが決まったわけでもない。

日曜日に会って、思っていた人と違うと感じるかもしれない。

その先のことは、まだ何も分からなかった。

ただ、二人で会いたいと思ったことだけは、もう想像ではなかった。

21:03 日曜日の午後二時

駅までの道を、二人で歩いた。

いつもと同じ道だった。

彼は途中で、道に迷っている人に声をかけられた。

立ち止まり、地図を開いて、曲がる場所まで説明した。

駅への帰り道で別の通行人へ道案内する成人男性を、写真展のチラシを持つ成人女性が穏やかに待つ場面

相談者は少し離れた場所で待っていた。

以前なら、その姿を見て思ったかもしれない。

自分にだけ優しいわけではない。

やはり、特別ではない。

けれど、彼が戻ってきた時、スマートフォンのカレンダーには日曜日の約束が残っていた。

「お待たせしました」

「大丈夫です」

「日曜日、雨みたいですね」

「写真展には、ちょうどいいかもしれません」

「展示の名前も『雨のあと』ですもんね」

二人で笑った。

駅へ向かう夜道で、日曜日の雨と写真展の名前を重ね、互いの目を見て小さく笑う成人の二人

彼は明日もきっと、困っている人に席を譲る。

誰かの飲み物の好みを覚える。

迷っている人に道を教える。

その優しさは、相談者だけのものにはならない。

それでよかった。

日曜日の午後二時は、誰にでも向けられた親切ではない。

彼と相談者が、二人で決めた時間だった。

恋ノートに残す一文

特別なサインを見つけるまで、
待ち続けなくてもいい。

二人で会いたいなら、
「二人で」と伝えるところから、
恋が始まることもある。


誰にでも優しい相手の見方は優しいけど誘ってこない男性は脈なし?で、サインを一つの行動で決めない考え方は脈ありサインとは?で整理できます。自分から一度提案する線は初デートに誘われないとき、自分から誘っていい?で、相手から関係を続ける働きかけを見る方法は男性の脈ありサインで確認してください。

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