午後一時に家を出るつもりだった。
紗季は鏡の前で髪をまとめ、やっぱりほどいた。初めて二人で会う日なのに、頑張ったことまで見抜かれるのは少し恥ずかしい。耳もとには、昨日選んだ小さな銀色のピアスだけを残した。
十一時八分。テーブルの上でスマートフォンが震えた。
ごめん。朝から熱が出てて、今日は難しそう。
本当にごめん。
待ち合わせ場所の名前が、画面の上に昨日のまま残っていた。
胸の内側が一段だけ沈んだ。けれど、画面の向こうで蓮が二度も謝っていることのほうが、すぐに気になった。
返信欄に「じゃあ、次はいつ会える?」と書いて、消す。
今日の午後より、明日の朝、熱が少しでも下がっていてほしかった。
知らせてくれてありがとう。今日はゆっくり休んでね。
会うのは、元気になってからで大丈夫だよ。
送信してから、水族館の予定をカレンダーから消した。
ぽっかり空いた午後、紗季は銀色のピアスを外し、湯気の立つ紅茶をいれた。伏せたスマートフォンが鳴らないことを、今日はよい知らせだと思うことにした。

この物語はフィクションです。
同じ一通の先にあり得る、二つの土曜日を描いています。
元気な日に、もう一度
火曜日の夜、蓮から短い連絡が届いた。
熱、下がったよ。まだ少しだるいけど。
心配かけてごめん。
紗季は、枕もとの暗い画面に返すつもりで打った。
よかった。まだ無理しないでね。
返事も気にしなくて大丈夫。
次の予定には触れなかった。

金曜日、仕事帰りの電車で、また蓮の名前が光った。
今日から仕事に戻れた。
まだ早く寝るけど、もう大丈夫そう。
窓の外では、雨粒が夜の明かりを細くのばしていた。紗季は「よかった」と声に出し、それからカレンダーを開いた。
二十二日の午後と、二十九日。どちらも土曜日で、まだ誰の名前も入っていない。
会いたいと思っていることだけは、曖昧にしなくていい気がした。
元気になってよかった。今度、元気な日に会えたらうれしい。
私は22日の午後か29日が空いてるよ。蓮の都合のいい日があれば教えてね。
候補日を二つ並べたあとには、蓮が自分の都合を書き足せる余白を残した。
紗季は送信の矢印を押す。
白い吹き出しの横に、小さな時刻がついた。

TWO POSSIBLE SATURDAYS
この先には、同じ一通から続く二つの土曜日があります。
どちらにもなりえた未来です。気になる扉を一つ選んでください。
もう一つの未来も、あとから開けます。
まだ、どちらの未来も開かれていません。
ONE POSSIBLE FUTURE
雨上がりの待ち合わせ
返事は、十分ほどして届いた。
22日は仕事なんだ。29日なら空いてるよ。
まだ長く歩くのは少し心配だから、駅前でお茶からでもいい?
紗季は、思わず肩の力を抜いた。
もちろん。水族館は逃げないし、まずはお茶にしよう。
蓮から、笑っている魚のスタンプが返ってきた。
じゃあ29日の15時で。
駅前の小さいカフェ、予約しておくね。
カレンダーの薄い丸の中に、店の名前と十五時という数字が入った。
二十九日、雨は待ち合わせの少し前に上がった。
蓮は窓際の席で、温かいカフェラテを両手に包んでいた。顔色を確かめるように見つめると、「もう平気」と笑う。

「あの日、“元気になってからでいい”って言ってくれて、ほっとした」
「本当に、そう思ってたから」
それ以上は、どちらも言わなかった。
水族館の話は、コーヒーが半分ほどになってから出た。行けなかった日の埋め合わせではなく、これから見たいものの話として。
店を出ると、濡れた歩道に二人分の影が淡くのびていた。
ANOTHER POSSIBLE FUTURE
窓辺の青い写真
返事は、翌日の昼に届いた。
ありがとう。まだ先の予定が見えなくて。
また落ち着いたら連絡するね。
理由なら、いくつも浮かんだ。休んだ分の仕事がたまっているのかもしれない。まだ週末まで約束するほどの元気は戻っていないのかもしれない。
紗季は、どれか一つを答えにする代わりに、短く返した。
うん。まずは体調を優先してね。
会えそうな日が見えたら、その時に教えて。
翌週、蓮から職場近くで見つけたプリンの写真が届いた。紗季も笑っている猫の写真を返した。会話は少しずつ日常へ戻ったけれど、土曜日の話だけは戻ってこなかった。
二十二日の前夜、由衣からメッセージが届いた。
明日、青い写真だけ集めた小さな写真展に行かない?
紗季はカレンダーを開いた。二十二日に残る薄い丸は、約束の印ではない。いつか連絡が来た時のために、自分で置いた丸だった。
蓮に元気になってほしいと思ったことは、本当だった。会いたいと送ったことも、本当のままでいい。
ただ、まだ誰とも決めていない土曜日まで、静かに待たせておかなくてもよかった。
紗季は薄い丸を消した。
行きたい。窓の大きい会場だよね。何時にする?
写真展の窓辺には、海ではないのに海のように見える青い一枚があった。由衣と半分ずつ飲んだレモネードの瓶にも、同じ色の光が映っていた。

帰りの電車で、蓮からまたプリンの話が届いた。紗季は笑って返し、カレンダーは開かなかった。
二十九日の丸は、その夜、そっと消した。白く戻った欄は、不思議と空っぽには見えなかった。

もう一つの土曜日も、すぐそばにあります。
AFTER BOTH STORIES
二つの土曜日を読んだあとで
二つのカレンダーを重ねると、片方の土曜日には駅前の店名があり、もう片方には写真展の名前があった。
薄い青の丸だけだった場所は、どちらも誰かの一日になっている。
あの日、紗季が願ったのは、蓮が早く元気になることだった。その願いは、どちらの未来でも変わらない。
同じ一通は、約束をかなえる魔法ではない。ただ、次の土曜日を片方だけで抱えずにすむ場所へ、紗季をそっと連れていった。
次の約束は、急いで取り直すものではなく、
元気になった二人が、互いの予定を少しずつ持ち寄ってできていく。
体調不良キャンセルだけで脈なしと決めない見方は、デートを体調不良でキャンセルされたら脈なし?で整理できます。紗季のように回復後の一通を考えたい時は、体調不良キャンセル後のリスケLINE例文から、二人の距離に合う文面を選んでください。




